田舎坊主の読み聞かせ法話

Written by: 田舎坊主 森田良恒
  • Summary

  • 田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
    田舎坊主 森田良恒
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Episodes
  • 田舎坊主の七転八倒<読経の声が合わない>
    Sep 12 2024
    仏教には声明(しょうみょう)というのがあります。 最近、高野山真言宗では「高野山声明の会」というのも結成されています。この会は本堂などのお堂で催される宗教行事だけではなく、さまざまな音楽ホールなどにおいてショーアップし公演されることも多くなりました。若いイケメンのお坊さんたちが法衣を着け、手にそれぞれ妙鉢(みょうはち:シンバルのような楽器)や散華(本来は花びらですが、絵柄の入った紙が多い)を入れた金色に輝くお盆などをもって、メロディーのついたお経を声を合わせてを唱えているのをご覧になった方も多いことと思います。 お坊さんのなり手が少ないなかで、このようなイベントが幅広く行われ、人材発掘の大きな契機ともなっているのです。ちなみに平成27年は弘法大師が高野山を開創して1200年になります。この大きな行事を前に全国で多彩な「お待ち受け法要」というものが開催されていますが、そのなかでもこの声明公演はひときわ人々の心を引きつけているように思います。その理由はおおぜいの僧侶のきらびやかな法衣衣装であり、厳かなたたずまいや厳粛な作法であり、ライトアップの舞台演出等々であることはいうまでもありません。 しかし最も大きな理由は、僧侶たちの声明がかもし出すハーモニーやメロディーであり、鉢や銅鑼、鐘などの音色ではないでしょうか。 私が平成63年3月、高野山密教遺跡研究会に同行させていただきシルクロードを旅行したとき、多くの石窟寺院を見ることができました。もともとシルクロードはイスラムが侵攻してくるまでは仏教の聖地でもありました。しかし現在残っている遺跡はほとんどが破壊されていて、石窟寺院のなかにはわずかに当時の壁画などを見ることができる程度です。私が最も感動したのは新疆ウイグル自治区の西端に近いクチャというオアシスの町にある「キジル千仏洞」に残された「五絃琵琶」の壁画です。この五絃琵琶がやがて日本に伝わり、現在では日本の超一級の国宝として正倉院に保存されているのはよく知られています。 この石窟にはほかにもたくさんの楽器を持った伎楽天が描かれています。仏教華やかなりしころ、仏をたたえ仏に感謝することを、人々は多くの楽器を使った音楽によって表現したことが実感されるのです。そして町やバザールに行けば、タンバリンやギター、三味線などの原型と思われるような楽器がところせましと売られています。 私の家にはそのときに買ってきたラワープという弦楽器と小さな太鼓、ホータンの河原で拾った玉石と1000年ほど前(?)の茶碗のかけらが今でも大切に部屋に飾ってあります。 現在、聞くことができる声明は日本の原音楽である浄瑠璃や謡曲、義太夫、長唄ひいては民謡などの元となったものであるといわれています。よく「ろれつ(呂律)が回らない」と言います。この呂律(りょりつ)は本来音楽の調子のことです。声明は基本的には呂・律・中の三曲と、五音とよばれる宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、つまり段々に音が高くなる、ドレミのような五音階でできています。この呂と律を取って言葉の調子がわるいことを「ろれつ(呂律)が回らない」といったのです。 さて、今から35年ほど前には、お葬式の職衆として声がかかると、ほかの職衆がだれなのか大いに気になったものです。3人葬式の場合、導師がいて脇に職衆が2人座ることになります。式中、導師は小さな声で引導作法をするため職衆2人が声を合わせて唱えなければなりません。この声が不揃いになると、ありがたみというか厳かさというものがなくなってしまいます。そのためお唱えする調子の高さやリズムなどをきれいに合わせることが必要となり、最も神経を使うところでもあります。 ところがなかには呂律のまわりがわるい高齢のお坊さんもいて、その方と職衆が一緒になると合わせるのに大変苦労するのです。お経の息を継ぐところもお互いに違うところですれば、途切れることもなく聞こえるのですが、こちらが止まればあちらも止まるということがあるのです。そうなると次の出...
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    11 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<老僧の悲哀>
    Sep 5 2024
    いまお寺では後継者不足が深刻な問題となっています。 その主な理由は、子どもが親の働く姿を見ていて継ぎたいと思えるような仕事ではないこと。現金収入とはいいながら子どもを育て独り立ちさせるまでの教育費などを考えると、安定した十分な生活資金が入ってくるとは考えられないこと、などがあげられます。もっと具体的に言えば、急激な檀家の減少、直葬や家族葬とよばれるようなお葬式の小規模化、宗派本山への負担金の高騰、法衣などの新調費や寺の維持管理費、嫁さんの来手がない、などです。 一方では住職の生活さえままならない田舎の檀家寺があります。他方では裕福な観光寺や信者寺などが数多くあります。 いまの日本は格差社会が広がっているともいわれていますが、私ども坊主業界もかなり格差がはげしいのではないかとも思っています。そんな田舎寺なのに「坊主丸もうけ」と思われているのですから、やはり現実とかけ離れた生活を強いられる寺の跡継ぎが好まれないのは当然なのかもしれません。 お寺の跡継ぎがいないということは、あるときにはきびしい現実を目にすることがあります。お寺には「結集」とよばれる互助組織があり、これは住職が病気になったときなどには他のお寺の僧侶がお互いに法事やお葬式などで手伝い合う組織であります。もちろん病気などにならなくてもお葬式の職衆(しきしゅう:導師以外の役僧)などには招かれることがあり、招かれたら次はこちらが職衆としてお願いをします。収入の少ない田舎寺ではこれがご互いに経済的にも助け合う仕組みになっているのです。 私が27歳ころのことですが、紀ノ川をはさんだ山の懐に、いつも職衆として呼ばれていた小さなお寺がありました。そのお寺は老僧が一人で寺を護っていました。奥さまを早くに亡くし、寺の跡取りと考えていた息子は町に出て所帯をもち、むしろ息子の方から縁を切るような形で出ていってしまったそうです。 お寺はほとんどの場合、住職が高齢になると後継者を自分で準備するのですが、息子以外でお願いするとなると、生活のことをまず考えなければなりません。しかし生活を保障できるだけの収入もなく、ましてや檀家もそこまで熱心に考えてくれる人もあまりいないのが実情でもあります。 老僧の年齢はその時80歳を超えていましたが、田舎では住職がいくつになっても必要な存在です。檀家総代が集まって後住(ごじゅう:次の住職)としてお寺に来てくれる人を探すなどしたものの、年に数回しかないお葬式とそれに付随する法事、お盆の棚経だけの収入ではなかなか来てくれる人は見つかりません。お葬式に職衆として行くと老僧は足も悪くなり、なんとか座敷では歩けるものの、田んぼのあぜ道などを行く野辺の送りの葬列は難しく、導師である老僧は、セメントなどを運ぶ工事用の一輪車に乗せられていました。 必要とはいえそこまでして坊主は働かなければならないのかと。同行していて哀れというか、悲しくさえなった思い出があります。 私自身、娘が2人で、しかし下の娘を早くに亡くしたため、1人娘になりました。その娘は大学を出てから介護ヘルパーとして働きだしたので、やがて私が年老いたら寺を継ぐものがなくなるのは目に見えていました。私の脳裏には一輪車に乗せられた老僧の姿が、やがて自分の姿と重なるようになってきました。 そこで、私は新しい住職が来てもらいやすいように、そしてせめてこの寺に住んでもらえるようにと、平成十三年、築二百九十年の庫裡の改修を檀家総代に申し出、理解を得てなんとか人が住めるように直していただきました。 2年後のことです。ヘルパーとして介護老人保健施設で働いていた娘が突然、「私、高野山の尼僧学院に入る」と、言ってくれたのです。尼僧学院の入学式の日、師僧を代表して私が挨拶することになりました。そのときの私は、緑たけなす黒髪を剃りおとし出家した5人の比丘尼の前で、ただただ涙が出て言葉にならなかったことを今でも忘れることができません。 そして娘が尼僧となってから11年たちました。在家に嫁いだものの、なんとその...
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    11 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<山行きが帰ってこない>
    Aug 29 2024

    私のいる村は旧高野街道の高野七口とよばれるうちの一つで、大門にいたる紀ノ川の入り口に当たり、「大門四里」の石標も残っています。

    当地は重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、昭和36年頃まで、川の近くにある茶屋町とよばれるところでは市も開かれ、高野参りの巡礼者たちは、旅館や茶店、薬屋で必要な品を買い求め、大門へと向かったのです。この茶屋町を過ぎれば峠までは急坂が続きます。この坂道に沿うように民家はもちろんのこと、お墓もそれぞれの家が自分の畑の近くに建ててます。そんな場所にあるお墓でも、昔は土葬でした。

    急坂にあるお墓といえば、こんなことがありました。


    お葬式の知らせが入ったお家は地区の一番下の谷沿いにあり、埋葬するお墓は高野山を望める峠とおなじくらいの高さのところにあります。その家とお墓までは標高差でいえば300メートルぐらいはあるでしょうか。そこまで町内会の人が棺をかついでのぼるのです。下に落としてしまわないように棺に2本のロープをかけ上からひっぱりながら男4人ぐらいでかつぎます。途中で何度も休憩し、男たちは場所を入れ替わりながら峠近くの埋葬墓地までかつぎ上げるのです。

    何も持たず葬列につく参列者でさえ、何度も休みつつ息も絶え絶えのぼるくらいですから、棺をかつぐ男たちのしんどさはいうまでもありません。峠のお墓についたころにはだれもが精も根も尽き果てているようすでへたり込んでいました。


    あの時、私の父親もかなりの年齢になっていたので、導師である父親のおしりを私が押しながら山(お墓)へ行ったことは忘れることができない思い出であります。


    山側のあるお家でお葬式が行われたときのことです。

    出棺の時間になっても埋葬のためにお墓に穴を掘る「山行き」役が、なかなか帰ってこないのです。普通なら出棺までに掘り終えるのですが、まだ掘れないというのです。当家に指示された墓の場所から岩盤が出たからです。少なくとも棺より一回り大きく、深さは百六十センチも掘る必要があるので、一メートル足らず掘り進んだところで大きな岩盤が現れたと言うのです。

    「山行き」は2人だけなので、人力だけで岩盤を割るのはとても無理だということで、発破をしかけることになりました。お墓に発破をしかけて掘るというのは、この土地でもはじめてのことでした。数回の発破で岩盤はなんとか砕くことができたのですが、今度は砕かれた石を出すのが大変です。2人で同時に穴に入ることができないため一人ずつ交代で石を掘りあげなければなりませんでした。また、穴は掘れても、棺を納めたあと掘りあげた砕石を埋め戻すわけにはいきません。土葬ですから当然埋葬は土でなければなりません。そのため今度は墓地内の違う場所から土を持ってこなければならなくなりました。しかも、いま掘っている場所は坂になっているものですから、あまり効率よく作業が進みません。二人の山行きさんにとってみれば、出棺が2時からなのにすでに3時間を経過し、夕暮れ近くになっており、まさに時間との戦いでした。そして結局、埋葬できたのが5時半を過ぎていたのです。

    このときほどこの田舎にも早く火葬の時代が来てくれないものかと、切実に思ったことはありませんでした。

    合掌

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