• 田舎坊主の七転八倒<読経の声が合わない>
    Sep 12 2024
    仏教には声明(しょうみょう)というのがあります。 最近、高野山真言宗では「高野山声明の会」というのも結成されています。この会は本堂などのお堂で催される宗教行事だけではなく、さまざまな音楽ホールなどにおいてショーアップし公演されることも多くなりました。若いイケメンのお坊さんたちが法衣を着け、手にそれぞれ妙鉢(みょうはち:シンバルのような楽器)や散華(本来は花びらですが、絵柄の入った紙が多い)を入れた金色に輝くお盆などをもって、メロディーのついたお経を声を合わせてを唱えているのをご覧になった方も多いことと思います。 お坊さんのなり手が少ないなかで、このようなイベントが幅広く行われ、人材発掘の大きな契機ともなっているのです。ちなみに平成27年は弘法大師が高野山を開創して1200年になります。この大きな行事を前に全国で多彩な「お待ち受け法要」というものが開催されていますが、そのなかでもこの声明公演はひときわ人々の心を引きつけているように思います。その理由はおおぜいの僧侶のきらびやかな法衣衣装であり、厳かなたたずまいや厳粛な作法であり、ライトアップの舞台演出等々であることはいうまでもありません。 しかし最も大きな理由は、僧侶たちの声明がかもし出すハーモニーやメロディーであり、鉢や銅鑼、鐘などの音色ではないでしょうか。 私が平成63年3月、高野山密教遺跡研究会に同行させていただきシルクロードを旅行したとき、多くの石窟寺院を見ることができました。もともとシルクロードはイスラムが侵攻してくるまでは仏教の聖地でもありました。しかし現在残っている遺跡はほとんどが破壊されていて、石窟寺院のなかにはわずかに当時の壁画などを見ることができる程度です。私が最も感動したのは新疆ウイグル自治区の西端に近いクチャというオアシスの町にある「キジル千仏洞」に残された「五絃琵琶」の壁画です。この五絃琵琶がやがて日本に伝わり、現在では日本の超一級の国宝として正倉院に保存されているのはよく知られています。 この石窟にはほかにもたくさんの楽器を持った伎楽天が描かれています。仏教華やかなりしころ、仏をたたえ仏に感謝することを、人々は多くの楽器を使った音楽によって表現したことが実感されるのです。そして町やバザールに行けば、タンバリンやギター、三味線などの原型と思われるような楽器がところせましと売られています。 私の家にはそのときに買ってきたラワープという弦楽器と小さな太鼓、ホータンの河原で拾った玉石と1000年ほど前(?)の茶碗のかけらが今でも大切に部屋に飾ってあります。 現在、聞くことができる声明は日本の原音楽である浄瑠璃や謡曲、義太夫、長唄ひいては民謡などの元となったものであるといわれています。よく「ろれつ(呂律)が回らない」と言います。この呂律(りょりつ)は本来音楽の調子のことです。声明は基本的には呂・律・中の三曲と、五音とよばれる宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、つまり段々に音が高くなる、ドレミのような五音階でできています。この呂と律を取って言葉の調子がわるいことを「ろれつ(呂律)が回らない」といったのです。 さて、今から35年ほど前には、お葬式の職衆として声がかかると、ほかの職衆がだれなのか大いに気になったものです。3人葬式の場合、導師がいて脇に職衆が2人座ることになります。式中、導師は小さな声で引導作法をするため職衆2人が声を合わせて唱えなければなりません。この声が不揃いになると、ありがたみというか厳かさというものがなくなってしまいます。そのためお唱えする調子の高さやリズムなどをきれいに合わせることが必要となり、最も神経を使うところでもあります。 ところがなかには呂律のまわりがわるい高齢のお坊さんもいて、その方と職衆が一緒になると合わせるのに大変苦労するのです。お経の息を継ぐところもお互いに違うところですれば、途切れることもなく聞こえるのですが、こちらが止まればあちらも止まるということがあるのです。そうなると次の出...
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  • 田舎坊主の七転八倒<老僧の悲哀>
    Sep 5 2024
    いまお寺では後継者不足が深刻な問題となっています。 その主な理由は、子どもが親の働く姿を見ていて継ぎたいと思えるような仕事ではないこと。現金収入とはいいながら子どもを育て独り立ちさせるまでの教育費などを考えると、安定した十分な生活資金が入ってくるとは考えられないこと、などがあげられます。もっと具体的に言えば、急激な檀家の減少、直葬や家族葬とよばれるようなお葬式の小規模化、宗派本山への負担金の高騰、法衣などの新調費や寺の維持管理費、嫁さんの来手がない、などです。 一方では住職の生活さえままならない田舎の檀家寺があります。他方では裕福な観光寺や信者寺などが数多くあります。 いまの日本は格差社会が広がっているともいわれていますが、私ども坊主業界もかなり格差がはげしいのではないかとも思っています。そんな田舎寺なのに「坊主丸もうけ」と思われているのですから、やはり現実とかけ離れた生活を強いられる寺の跡継ぎが好まれないのは当然なのかもしれません。 お寺の跡継ぎがいないということは、あるときにはきびしい現実を目にすることがあります。お寺には「結集」とよばれる互助組織があり、これは住職が病気になったときなどには他のお寺の僧侶がお互いに法事やお葬式などで手伝い合う組織であります。もちろん病気などにならなくてもお葬式の職衆(しきしゅう:導師以外の役僧)などには招かれることがあり、招かれたら次はこちらが職衆としてお願いをします。収入の少ない田舎寺ではこれがご互いに経済的にも助け合う仕組みになっているのです。 私が27歳ころのことですが、紀ノ川をはさんだ山の懐に、いつも職衆として呼ばれていた小さなお寺がありました。そのお寺は老僧が一人で寺を護っていました。奥さまを早くに亡くし、寺の跡取りと考えていた息子は町に出て所帯をもち、むしろ息子の方から縁を切るような形で出ていってしまったそうです。 お寺はほとんどの場合、住職が高齢になると後継者を自分で準備するのですが、息子以外でお願いするとなると、生活のことをまず考えなければなりません。しかし生活を保障できるだけの収入もなく、ましてや檀家もそこまで熱心に考えてくれる人もあまりいないのが実情でもあります。 老僧の年齢はその時80歳を超えていましたが、田舎では住職がいくつになっても必要な存在です。檀家総代が集まって後住(ごじゅう:次の住職)としてお寺に来てくれる人を探すなどしたものの、年に数回しかないお葬式とそれに付随する法事、お盆の棚経だけの収入ではなかなか来てくれる人は見つかりません。お葬式に職衆として行くと老僧は足も悪くなり、なんとか座敷では歩けるものの、田んぼのあぜ道などを行く野辺の送りの葬列は難しく、導師である老僧は、セメントなどを運ぶ工事用の一輪車に乗せられていました。 必要とはいえそこまでして坊主は働かなければならないのかと。同行していて哀れというか、悲しくさえなった思い出があります。 私自身、娘が2人で、しかし下の娘を早くに亡くしたため、1人娘になりました。その娘は大学を出てから介護ヘルパーとして働きだしたので、やがて私が年老いたら寺を継ぐものがなくなるのは目に見えていました。私の脳裏には一輪車に乗せられた老僧の姿が、やがて自分の姿と重なるようになってきました。 そこで、私は新しい住職が来てもらいやすいように、そしてせめてこの寺に住んでもらえるようにと、平成十三年、築二百九十年の庫裡の改修を檀家総代に申し出、理解を得てなんとか人が住めるように直していただきました。 2年後のことです。ヘルパーとして介護老人保健施設で働いていた娘が突然、「私、高野山の尼僧学院に入る」と、言ってくれたのです。尼僧学院の入学式の日、師僧を代表して私が挨拶することになりました。そのときの私は、緑たけなす黒髪を剃りおとし出家した5人の比丘尼の前で、ただただ涙が出て言葉にならなかったことを今でも忘れることができません。 そして娘が尼僧となってから11年たちました。在家に嫁いだものの、なんとその...
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    11 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<山行きが帰ってこない>
    Aug 29 2024

    私のいる村は旧高野街道の高野七口とよばれるうちの一つで、大門にいたる紀ノ川の入り口に当たり、「大門四里」の石標も残っています。

    当地は重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、昭和36年頃まで、川の近くにある茶屋町とよばれるところでは市も開かれ、高野参りの巡礼者たちは、旅館や茶店、薬屋で必要な品を買い求め、大門へと向かったのです。この茶屋町を過ぎれば峠までは急坂が続きます。この坂道に沿うように民家はもちろんのこと、お墓もそれぞれの家が自分の畑の近くに建ててます。そんな場所にあるお墓でも、昔は土葬でした。

    急坂にあるお墓といえば、こんなことがありました。


    お葬式の知らせが入ったお家は地区の一番下の谷沿いにあり、埋葬するお墓は高野山を望める峠とおなじくらいの高さのところにあります。その家とお墓までは標高差でいえば300メートルぐらいはあるでしょうか。そこまで町内会の人が棺をかついでのぼるのです。下に落としてしまわないように棺に2本のロープをかけ上からひっぱりながら男4人ぐらいでかつぎます。途中で何度も休憩し、男たちは場所を入れ替わりながら峠近くの埋葬墓地までかつぎ上げるのです。

    何も持たず葬列につく参列者でさえ、何度も休みつつ息も絶え絶えのぼるくらいですから、棺をかつぐ男たちのしんどさはいうまでもありません。峠のお墓についたころにはだれもが精も根も尽き果てているようすでへたり込んでいました。


    あの時、私の父親もかなりの年齢になっていたので、導師である父親のおしりを私が押しながら山(お墓)へ行ったことは忘れることができない思い出であります。


    山側のあるお家でお葬式が行われたときのことです。

    出棺の時間になっても埋葬のためにお墓に穴を掘る「山行き」役が、なかなか帰ってこないのです。普通なら出棺までに掘り終えるのですが、まだ掘れないというのです。当家に指示された墓の場所から岩盤が出たからです。少なくとも棺より一回り大きく、深さは百六十センチも掘る必要があるので、一メートル足らず掘り進んだところで大きな岩盤が現れたと言うのです。

    「山行き」は2人だけなので、人力だけで岩盤を割るのはとても無理だということで、発破をしかけることになりました。お墓に発破をしかけて掘るというのは、この土地でもはじめてのことでした。数回の発破で岩盤はなんとか砕くことができたのですが、今度は砕かれた石を出すのが大変です。2人で同時に穴に入ることができないため一人ずつ交代で石を掘りあげなければなりませんでした。また、穴は掘れても、棺を納めたあと掘りあげた砕石を埋め戻すわけにはいきません。土葬ですから当然埋葬は土でなければなりません。そのため今度は墓地内の違う場所から土を持ってこなければならなくなりました。しかも、いま掘っている場所は坂になっているものですから、あまり効率よく作業が進みません。二人の山行きさんにとってみれば、出棺が2時からなのにすでに3時間を経過し、夕暮れ近くになっており、まさに時間との戦いでした。そして結局、埋葬できたのが5時半を過ぎていたのです。

    このときほどこの田舎にも早く火葬の時代が来てくれないものかと、切実に思ったことはありませんでした。

    合掌

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    8 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<坊主も山行きするんです>
    Aug 22 2024

    私が葬式で導師をつとめるようになってまもなくのころのおはなしです。

    現在のようなセレモシーホールなどで通夜、葬式をつとめ、出棺は自動車で火葬場へ行くというものに比べれば、昔はかなり丁寧な葬送の儀式であったように思います。

    私のいた村では平成5年ころまで、葬式はすべて自宅で行われていました。そして「野辺の送り」でそれぞれ役割の仏具を持ち、葬列を組んで墓地までいくのです。

    その前には、「山行き」とよばれる墓の穴を掘る役の人が町内会から当番で選ばれ、彼らが朝早くから掘った幅60センチ、長さ200センチ、深さ160センチの埋葬地で土葬前の供養をつとめるというのが普通のお葬式の形でした。

    かつての野辺の送りには、命の限りや生き方などを見つめさせる深い意味がありました。

    出棺する少し前から一番鐘、二番鐘、三番鐘と大きな鉦鼓が当家の玄関先で鳴らされます。遠くにいる人たちにも、もうすぐ出棺が近いことを知らせるのです。そのあと最後の別れを済ませたあと生前使用していた茶碗が割られ、もうここでは食事をする場所がないことを死者に知らせます。

    そして最後に棺を庭に出して右回りに三回まわり、この家にはもう戻れないことを死者に悟らせるのです。葬列には先ほどの鉦鼓のほかに大きな銅鑼も鳴らし、故人の葬送を地区の人たち全員に知らせます。高く掲げられた四本幡には「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と書かれていて、「すべての存在は無常で移り変わるものです。そのことがわかれば苦を超えた平安が得られます」と教えています。

    この野辺の送りは故人のためだけのセレモニーではなかったのです。

    いま元気に畑で農作業をしている人々にも多くのメッセージを送っているのです。

    今日亡くなったのはあの人でも、あすはあなたが棺に入るかもしれないのですよ、と無常を悟らせ、いま元気に働けることを感謝しながら一日一日を大事に生きることを気づかせてくれるのです。

     けんかしたままの人はいませんか? お礼を言えていない人はいませんか? 受けたご恩にお返しはしましたか? 今できることは今しておきましょう、と。

    私たちは急に命を落とすという現実を毎日のようにニュースなどで接しているにもかかわらず、なかなか自分のこととは思えないものです。そんなとき、この野辺の送りが教えてくれているのは、命の限りであり生き方ではないでしょうか。

    ちなみに私も「山行き」の役をつとめたことがあります。

    町内会の順番とあって当然のつきあいとして役をいただいたのですが、坊主が墓の穴掘りをするという絵面はあまり見せられたものではありません。山行き当番は二人で、朝早くからその当家の墓地へ行き、喪主から埋葬場所を指示してもらったあと穴を掘ります。棺より一回り大きい穴を掘るため相当時間がかかりますが、もちろん葬式が始まるまでには掘り終わらなければなりません。休憩所では山行きさん用に風呂が沸かされ、穴掘りが終わると、入浴というか沐浴をすることができ、あとは埋葬まで休むことができます。

    しかし、私は引導を渡す導師でもあります。風呂に入るやいなや法衣に着替え葬式をしなければなりません。野辺の送りを済ませ、土葬前の供養が終わると今度はすぐさま葬列の方々の前で法衣を脱ぎ捨て作業着に着替えます。下駄を放り投げ長靴に履き替え、数珠をスコップに持ち替えて棺を埋めなければならないわけです。このようすを見ていた参列者のひとりの「坊さんに山行きさせたらあかんでえ」という言葉を聞いたのは、私ひとりではなかったようです。

    その後、田舎坊主に山行きの役が回ってくることはありませんでした。

    いまは野辺の送りも土葬という風習もなくなってしまいました。唯一、残っているのは、出棺時、かつての三番鐘の代わりとして鳴らされる霊柩車のクラクションと、半紙に包まれたお茶碗を割ることぐらいではないでしょうか。

    合掌

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    10 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<細工をしないで>
    Aug 15 2024
    坊主はお布施で生活しています。 正確にいうと、私の場合、お布施という資金を宗教法人不動寺という会社が布施収入としてプールし、その会社から人件費として坊主に支払われます。もちろん収入が人件費を上回っていれば問題はないのですが、ときどき毎月の人件費支払額に満たない場合もあります。法人の貯えが相当あれば当然それでまかなわれることになるのですが、なかなかそううまくはいかないのが現実なのです。それでも毎月、源泉徴収をし、12月末には年末調整をし、税務署や役所に報告しなければなりません。 つまり実際には決めた月給の半分もいただいてない、というかお布施が少なくて払えないときでも、決めた額で記帳し申告するのです。 また、本来ならボーナスもいただきたいところですが、いまだかつていただいたことがありません。これはまさに零細企業そのものです。 檀家さんでも私たち坊主が月給取りで、源泉徴収事務をし、年末調整のうえ税務署などに申告していることを知っている人はほとんどいません。「坊主丸もうけ」と思っているのです。 本来、古来インドや上座部仏教の地域では僧侶は生産活動をしないため、庶民や信者などから直接食べ物やお金を布施としていただいて命の糧としていたのです。 布施をする人にとってみれば、人々の幸せを祈り、豊作を祈願し、そのために日々修行してくれる僧侶に、食べ物や金銭を施すことはなによりの功徳であり、供養であると考えていたのでしょう。 庶民は土に種をまき、作物を収穫し、その作物やそれを売ったお金を僧侶に布施するのです。僧侶は布施をもとに生命をたもち、修行して得られた智恵や祈りの種を庶民の心にまくのです。布施という行為は、お互いに提供しあうのであって、決して一方的に与えたり与えられたりするものではないのです。 布施という言葉はサンスクリット語の「ダーナdâna」が語源といわれています。「ダーナ」とは、「提供する」とか「喜んで捨てる」という意味があります。「ダーナ」は中国から日本に伝わるとき「檀那」と漢訳されました。ですから、布施する家は「檀家」となり、布施される寺が「檀那寺」となるのです。「うちの旦那さん」の旦那もおなじく「檀那」で、家族にお金やものを提供する人という意味があります。 「ダーナ」が英語圏に伝わって「ドナーdonor」となります。移植医療では臓器などを提供する人のことを「ドナー」とよぶのはよく知られたことです。もちろん「ダーナ」が語源なのですから、提供するかぎり喜んで捨てるこころが大切なのはいうまでもありません。 ちなみに2002年4月、衆議院議員の河野太郎氏がドナーとなり元衆議院議員の父河野洋平氏が「生体肝移植手術」を受けたことを覚えている方も多いことと思いますが、この手術で息子さんの肝臓の一部を提供された河野洋平氏はいまも元気で活躍されています。この「生体肝移植手術」という方法が日本ではじめて実施されたとき私ははじめてドナーという言葉を知りました。 それは1989年11月に島根医大で日本初、世界で四例目という「生体肝移植手術」が行われたときのことです。 このときの患者は、胆道閉鎖症という病気で余命いくばくもなく肝臓移植しか救われるすべのないYちゃんという小さな子どもで、ドナーはこの子のお父さんでした。この手術に踏み切った当時の執刀医永末教授は、「肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した」と、述懐しています。 「ダーナ」の精神で提供され実施されたこの手術は、現在では5千例を超え、一般的な治療となって多くの患者の命を救っているのです。まさに喜んで捨てる行為が移植医療を支えていると言っても過言ではないのです。 この田舎寺には毎年8月9日、お盆の前に行われるお施餓鬼という行事があります。 そのときのお布施について少しご紹介します。 ご自分のご先祖だけではなく、餓鬼道という地獄に落ちている縁故なき精霊にも水を手向け供養するのがお施餓鬼供養...
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    13 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<お爺さんの珍接待>
    Aug 8 2024

    田舎坊主の七転八倒<お爺さんの珍接待>


    田舎寺の檀家さんも高齢化が急速に進んでいます。

    後を継いでもらいたい息子たちはきつい労働を強いられる割には収入の少ない農業を嫌い、町に出て就職、結婚し、家を建て、あらたな家庭を持って田舎に帰ってくることはなくなりました。娘さんたちも大学を出て就職し、サラリーマンと結婚し、これもあらたな生活を町で始めるようになっています。

    田舎に帰ってくるのはお盆と正月、といいたいところですがそれさえも帰らない子どもたちが増えているのです。

    お盆であれ正月であれ、自分の家庭が一番なのでしょう。せっかくの休みですから、家族旅行などが優先され、田舎に足を向けることはほとんどなくなってしまいました。ましてや今は田舎に帰って親の顔を見なくても、湯沸かしポットをインターネットにつないでおけば、親がそのポットを使わなければスマートホンがそのことを知らせてくれるのですから、安心して「放っておける」時代なのです。

    田舎に残るのが老人ばかりになるのは当然のことかもしれませんが、それにしても寂しい時代になってきていることは、こういった現実が教えてくれています。

    私は35歳の時から地域の公民館長を10年ほどつとめていました。今この公民館ではボランティアさんが中心となって、80歳以上の方の食事会を恒例で開催しています。この村の戸数は300戸あまりですが、食事会に参加する80歳以上の方は100人にものぼり、いかに高齢者が多いか驚くばかりです。

    暑いお盆のことです。

    平成16年までは私ひとりで約400軒の檀家さんをお参りしていました。お盆のうちでも多い日は一日に100軒お参りしなければなりません。単純計算で一軒6分お参り時間がかかるとすれば100軒で600分ですから10時間必要だということになります。これに移動時間を含めると11~12時間ということになります。この日は朝食もお昼ご飯も抜き、トイレも最大限我慢です。

    8月の暑いさなかでも水分は最小限に抑え、20軒で一度お茶をいただく程度にしています。申し訳ないのですがお盆はあくまでも軒数をこなすことを優先しなければなりません。

    ある棚経でのこと、おじいさんひとり住まいのおうちでお茶をいただくつもりでお参りを済ませたところで丁度よく冷たい乳酸菌飲料を出してくれたました。

    コップの中の白い液体の表面には氷のような少し黒いものが浮かんでいます。白い液体に氷を浮かべれば少し陰のように黒みがかって見える、まさにその氷だと思ったのです。のども渇いているのでまず氷を「つるっ」と飲み込みました。・・・・が、どうも柔らかいのです。それはしばらくしてチュルンとのどを通り過ぎました。そのあとすぐ液体の方を飲みかけたとき「これ原液やっ!、うすめてないがな・・・」と気がつきました。

    そして先ほど飲み込んだものを、よおーく思い出してみました。あの少し黒みがかった色、のどをとおった感じ・・・・・・、「あれ、ナメクジや」

    たぶん、開けたままのその飲み物の瓶の口からナメクジさんが侵入していたのでしょう。

    結局、原液ままの飲み物とナメクジではのどを潤すことはできませんでした。というより早くうがいをしたい気持ちになったのは言うまでもありません。

    しかし、暑い中お参りしてくれてるからと、冷たい飲み物を接待しようと思ってくれたおじいちゃんの温かい気持ちは、なによりも有りがたくいただくことができました。

    お盆になると、このときのナメクジ入りの飲み物の味を思い出すとともに、老人ひとり住まいのわびしさのようなものをいまだに忘れることができません。

    合掌

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    9 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<お盆は暑いものです>
    Aug 1 2024

    当田舎寺ではお盆になると、出檀家さんを含めて約四百軒お参りします。

    これを棚経というのですが、昔は各家でご先祖さまを迎えてお祀りするための棚をつくり、そこにご先祖さまが帰ってくるための乗り物として、茄子などの野菜と割り箸で動物を形づくりお祀りしたものです。 お盆にはこの前でお経をあげることから棚経といわれるようになりました。

    8月10日から14日まで私ひとりでお参りしていたころには、一日に100軒、午前5時から夕方5時頃までかかる日もありました。

    一軒あたりの読経時間はせいぜい7~8分ぐらいですが、とにかく数をこなしてお参りを済ませる必要があるため、ゆっくり悠長にロウソクやお線香をつけたりすることはできません。

    玄関から挨拶しながら仏間まで一気に上がり込みます。

    家に入っていいか、座敷に上がっていいか返事を待ってる暇はありません。幸いお参りする日は決まっていますので玄関は開いています。お家の人がいようがいまいが、とにかく上がって仏壇の前に座ります。座るやいなやリンを2回鳴らし、読経をはじめるのです。それからロウソクやお線香に火をつけお供えします。もちろんお経を拝みながらです。

    お経が終われば、すでに準備してくれているお布施をいただいて、挨拶をしながら帰り、次の家に行きます。

    もし、その当家の方がお留守の場合でも、お経はあげてから帰ります。そうしないと戻ってきてお参りしなおすというようなことになり、大変な時間のロスになるからです。

    そんな日は朝食も昼食も抜きです。もちろん途中でトイレをしたくなることもありますが、できるだけ我慢をします。

    それは衣を着てのトイレは不便だから。田舎とはいえ、坊主が法衣を着て畑で用を足している姿はあまり行儀のよいものではありません。その家のトイレを借りればいいように思いますが、昔のこと、古風なトイレなものですから、法衣を着ていることを考えるとなかなか借りる勇気がでないのです。

    この辺のことは檀家さんもよく知ってくれていて、あえてお茶をすすめるようなことはしないように気遣ってくれていました。

    さて、お茶はいいのですが、夏真っ盛りのため暑さにだけは少し気を配ってほしいと思うのです。

    しかし田舎の家のこと、エアコンが居間にあればいい方で、仏間にエアコンがあるところはほとんどありません。

    うちわは置いてくれているところは多いのですが、坊主が自分で扇ぎながらお経を拝むのもだらけているようでできません。

    たまには気のきいた奥さんがうちわで扇いでくれますが、読経があまりにも短時間のため、うちわを用意している間に終わっていることもたびたびです。

    扇風機も置いてくれているところは多いのですが、さて当家の人がうしろで扇風機をつけたとたん、「ロウソクが消えたわ、扇風機あかんなあ」と、いってスイッチを切ってしまうのです。私は心の中で「ロウソクはわしが帰ってからいつでも立てられるから、扇風機つけといてえな」と、思うのです。

    扇風機を止められると、あとはよけいに暑いのです。 

    お盆の棚経での暑さ対策、なんとかなりませんでしょうか?

    合掌

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    7 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<法事での募金箱>
    Jul 25 2024

    2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

    テレビの情報番組が特別番組に切り替わり、東北地方で発生した大地震による未曾有の大津波を生中継する画面に私は釘付けになりました。

    みるみるうちに濁流が滑走路に進入し、車も飛行機も押し流され、空港ターミナルが浸水していく仙台空港をテレビは映しだしていました。その瞬間、胆道閉鎖症という難病のわが子を助けたいとの一心で、昭和六十年はじめて飛行機に乗って降り立ったのが仙台空港だったという記憶が私の頭をよぎりました。

    一年半入院し、お世話になった仙台のため、東北のために、何かしなければという思いが沸々とわき上がってきたのです。

    地震発生から4日目の3月15日、私は銀行からほとんど全財産といえる1000万円をおろし、その足で地元の紀の川市に「大震災で困っている方に使って下さい」と寄付を申し出ました。

    このとき、紀の川市ではまだ募金の窓口はできていなかったので保留となり、その後、市長さんから「紀の川市の名前でいろいろな方からの募金として合算して報告するにはあまりにも高額なので、あなたの名前で日本赤十字和歌山支部に持っていってもいいですか?」と電話があり、すべてをお任せすることにしました。


    それからというもの、テレビでは連日、すべてのメディアが大震災の報道に切り替わりました。

    それは大地震と巨大津波が東北の人たちから全てを根こそぎ奪っていったことを伝えていました。

    家であり仕事でありふるさとであり家族であり、今まで努力の成果として得てきたもの全てをです。

    命からがら助かった人は文字どおり「着の身着のまま」で、残ったのは命だけという人がほとんどでした。

    しかし、まさに絶望の淵になんとか踏みとどまった人たちの口から出る言葉は「命があっただけで、しあわせです」という言葉です。

    さらに避難所で家族が見つかった時、「生きててよかった。それだけで充分です」という人もいました。

    たった一杯の温かい飲み物や食べ物が差し入れられれば「本当にありがたいです」と話しているのです。

    そして「まだ見つからない人も多いなかで、これ以上のことは贅沢です」とも話されるのです。

    避難所などにいる被災者から聞こえてくるのは「感謝です」「ありがたいです」という言葉であふれているのです。

    ある避難所のなかにいた中学一年生くらいの女の子が「今までどれだけしあわせだったか、はじめて気がつきました」と話していたことが、私の脳裏から離れないのです。


    私はそれから後の法事の際には、「毎日のお味噌汁に文句を言ってませんか?」「温かいご飯に感謝しているでしょうか?」「今がどんなに幸せか、感じていますか?」などの話をし、手づくりの募金箱をまわしながら法事に集まった皆さんに募金を呼びかけるようにしたのです。


    私が個人的に寄付したことを新聞などで知っている方も多かったため、多くの方は快く募金してくださいました。

    なかには何回も募金箱に寄付して下さる方もあり、感謝の気持ちでいっぱいになることも・・・・。

    そして小さな子どもさんまでもが、にぎりしめた50円玉、100円玉を募金箱に入れようとしてくれるとき、私が「お菓子を買えなくなるよ」と話しても、「いいよ」と言って募金してくれる姿には胸が熱くなりました。

     

    この募金活動は2年続き、70万円を超える額の浄財が被災地に届けられたのです。

    合掌

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    8 mins